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2011年5月19日 (木)

0002 カッシーノ!

人は…
と、私の身の上に起こることを一般化してしまうことは、
おおきな試み違いだと自覚してはいるのですけれども、

人は二度同じ失敗をする。

と思うのです。
一度目の失敗は、それが失敗だったのかどうかの自覚すらなく
どうしてそういうことが起こってしまったかなど問うにおよばず、

そして、もう一度類似の失敗をおかしたときに、はじめて
失敗だったと自覚… すればよいほうかもしれません。


なんでそんなことを思ったかと言えば、
私は、過去にも1000冊読破を志したことがありました。
そして、そういうことはすっかり忘れていました。

当時の自分について、建設コンサルタントとしての資質不足を感じていたのでしょう。
そして、1000冊の根拠は、千夜千册であり、
私の母校(大学相当)の図書室にあった書籍を1000冊を目標に片っ端から読破したという
先輩の伝説が記憶のどこかにあったためでしょう。

どうもその時期は、2006(平成17年)頃のよう。

ところが動機とは裏腹に、ハードディスクにはその記念すべき1冊目として、
浅田次郎氏の小説(いや、ドキュメンタリー?)
「カッシーノ!」
の記録が残されており、感銘を受けたくだりが次々と
表計算ソフトexcelのシート上に映し出されるのです。

今回の「千夜千册」、2冊目にして早くも前途多難が明るみに出ており、
であるならば、過去の失敗というか挫折の記録も通算しつつ、1000冊を目指すということで、
私の内部では折り合いがついたのでありました。

ところで、5年前の私が書き抜いた「カッシーノ!」の断片は、
今夜においても実におもしろい断片であります。

この書は、著者の浅田次郎氏がカメラマン氏、編集者氏とともに
世界中の有名カジノを旅して実際に賭博に興じる物語です。
(旅のメンバーは、ひょっとしたら正しくないかもしれません
 なにしろ、5年も前に読んでもので…)

私が今、登別の地においてその未来を考えるときに、
「カッシーノ!」の洞察が根底にあることを思い知るのでした。




-----では、(当時)私の反応したくだりリストを以下に-----

(p.49)
わが国で構想されているカジノは、お台場よりも熱海が正解、ということになる。

(p.51)
国家の平和と繁栄を永遠に保証するものは決して武力ではなく、文化なのだと。
あるいは、文化こそが最大の武力であると認識する、国民の叡智なのだと。

(p.56)
「私のイメージでは」という彼女の説明は気に入った。
旅先のガイドはともすると、丸覚えの観光案内を立て板に水のごとくまくしたてる。
マダム・ヨーコはプロのガイドではなかった。

(p.56)
「お仕事は?」と、私は少し腰を引いて訊ねた。
「これといってありませんの"

(p.66)
「出ますわ、きっと」

(p.74)
あの若い女がツイていると思えばその張り目に乗ればいいし、
こっちのオヤジはいずれオケラでだと判断すれば、その反目を狙えばいい。

(p.90)
Casinoの語源は、イタリア語で「小さな家」を意味するCasaである。

(p.90)
弾圧と規制の対象になる。
人間は元来、時間と暦とに追いたてられながら額に汗して金を稼ぐべきなのである。
ところがギャンブルは、けっして労働とはいえぬ遊戯によって、金のやりとりをする。
これを規制せずして、まともな社会を維持できようはずがない。

(p.91)
だいたいからして政治家なるものは古今東西、保身のかたまりであるから、
発想のコペルニクス的転換を禁忌とする。
必ず現状における利得ばかりを考える。
「いっそのこと」という言葉自体が禁句なのである。

(p.104)
勝負の場に臨んで、私は自分の敗北イメージしたためしがない。
結果がどうであるかはともかく、始めるときには勝つものだと思いこんでいる。
「きょうは勝つか負けるか」ではなく、「きょうはいくら勝つか」なのである。

(p.109)
つまり、バチカンもマフィアも、ミケランジェロもアルマーニも、シーザーもムッソリーニも、
ダ・ヴィンチもパスタもビバルディもフェラーリも、みんなイタリアにはちがいないのである。

(p.111)
この国のプライオリティは、必ずしも「豊かさ」ではない。
すべてに先んじるものは「美しさ」なのである。

(p.111)
石畳は、不便である。観光客は足の疲れに悩み、靴も車も傷み、むろん危険でもある。
ではなぜわざわざそんなことをしたのかというと、
石畳はアスファルトより美しいからなのであった。

(p.116)
特にここを称して「バーデン・バイ・ヴィーン」という。
ウィーン空港からアウトバーンをとばせばアッという間であるが、できることなら
オペラ座前から路面電車に揺られて、バーデンの中心であるヨーゼフ広場に至るルートを
お勧めしたい。

(p.117)
バーテンはよいところである。一度はおいでというべきであろう。
豊かな緑と咲きほこる花の中に、まったく物語のようなハプスブルグ時代の
街並みが続いている。"

(p.122)
楽聖ベートーヴェンのいかめしい胸像が建っていた。彼もまた、このホテル・サウアーホフを愛したゲストであった。

(p.123)
「カジノバーデン国際会議場」だが、何ともカルチャー・ショックを禁じ得ない命名である。
たしかにこの宮殿の中には、カジノと国際会議場が共存している。

(p.124)
国際会議場なるものは社交の場なのだから、酒をくみかわし、
音楽や舞踏を楽しむのと同様に、ギャンブルに興ずるのである。
そのことのどこに矛盾があるのかと、逆にマネージャーから質問されて、私は答えに窮した。

(p.126)
人はしばしば才を信じて努力を怠り。また非才を嘆いても努力を怠るからである。
すなわち、才能のあるなしにかかわらず、はなからそういうものの存在は信じぬほうが結果はいいに決まっている。
つまるところ、「才能は情熱の異名」とする私の持論はてんで当たらない。

(p.128)
「博才とは何か」~
第一に、彼らの性格はおしなべて温和である。~
第二に、経済感覚である。~
一発勝負の大勝利や常勝の栄光などは不必要かつあってはならないものであり、
小勝ちの貯蓄もしくは三勝二敗の道徳こそが、人生を保証するのである。~
第三に、~真のギャンブラーは明るい。~
ただし、決して酒の力は借りない。ということは、先天的な座持ちのよさがある。
勝っても憎まれないこうした性格は、
特定のメンバーを相手にする場合などには大きな武器となり、
実力を隠藪する衣装ともなる。

(p.140)
このように考えると、カジノというものは国家の雛形だという気もする。

(p.140)
ハンドルを握ったまま技術を要するでもなく、勝っても負けてもたかがしれているゲームに、
大の大人がずらりと仏頂面を並べているさまは、
生産手段の社会的所有と計画原理に基づく分配、
すなわち社会主義そのものではないか、と。
~パチンコは娯楽である以前に、日本そのものなのである。

(p.151)
話ながらマネージャーの投げたボールは、「0」に落ちていたのである。

(p.153)
ゼーフェルトは噂にたがわぬ、美しい谷間の村であった。まさに箱庭である。
駅舎を出たとたん、これはテーマパークではないかと目を疑うほどの風景が拡がる。
バスも車もない。小さな村の交通機関は、馬車と電気自動車である。

(p.156)
不善なるものを徹底的に排除したこの町にカジノが存在するということは、
少なくともそれがガソリンエンジンよりも善なるものであると、
チロルの人々は認識していることになる。

(p.159)
長く滞在なさってもゲストが退屈することのないよう、
さまざまのリラクゼーションが整っています。
屋内プール、スパ、エステティック、マッサージ、六つのレストラン、
地下には五百年間続くワインセラーも」
そのうえ夏はアルプスのトレッキング、冬ならスキーやクロスカントリーといった
娯楽のメインコースがあるのだから、退屈するどころかカジノに通う余裕はあるまい。

(p.162)
どうしてそんなに忙しいのかな。
むしろ日本人の一生は世界一長いはずなのに。タイム・イズ・マネーということでしょうか。
~タイム・イズ・マネーもけっこうですが、タイム・イズ・ライフということもお忘れなく」

(p.163)
ゼーフェルトのカジノは、誠にフレンドリィである。

(p.164)
たしかにパチンコは、その外見もシステムも、客観的にはまぎれもない「日本固有のカジノ」なのである。
これをカジノではないと主張するのは、自衛隊を軍隊ではないと言い張るのとよく似ている。

(p.238)
まず、人間の行動はすべて自己責任に帰結するということを教えてくれる。
この考え方の欠如は、総じて日本人の民族的欠嵌である。

(p.242)
ではなぜわからなくなったのかというと、
手持ちの金がトケてキャッシュカードを濫用したせいであった。

(p.242)
日本人が総じて自己管理能力に劣っていることは確かであろう。
完成された社会主義国家というか、ともかく相互扶助と思いやりの精神によって、
個人のハンディキャップばかりかミステイクまでもが救済されてしまうのである。
親は子に存分な小遣いを渡す。
学校は追試験を繰り返して生徒を進級させる。
職場では往々にして、働き者の社員が生産性のない同僚の給料までも稼ぎ出す。
恒常的な外注システムによって、下請けの企業は努力なしで繁盛する。
スクールネームがあれば、一生食うに困らない。
借金で首が回らなくなれば、いともたやすく自己破産ができるし、社会的波及効果が考慮されて、大企業は巨額の債権放棄を受けるのである。

(p.248)
パリに帰る途中、美しい漁師町オンフールに立ち寄る。

(p,256)
こういう時間が持てるのも、鉄道ならではであろう。
思考が行動に追いつかぬという空の旅の重大なる欠点を、人間はあんがい忘れている。

(p.259)
ひとつは、ドイツにおいてはギャンブルそのものが
温泉保養地を訪れるような特権階級の遊びとして規定されていたのである。

(p.262)
カジノばかりではなく、
ギャンブル事業を成功させるためには、利用者を広く浅く求めることは誤りで、
むしろ狭く深く、金持ちの退蔵資産を掘り起こすというほどのコンセプトを持たねばならない。
社会に弊害をもたらさず、なおかつ実効を上げようとしたドイツ的な結論が、すなわち「バーテン」「バート」のカジノである。

(p.281)
いかなる事情があれ、小説家に手抜きは許されない。
たとえ過去にどれほどの名作を書いていても、一篇の失敗作、一行の駄文で、たちどころに名声は失墜するからである。

(p.291)
バーデンバーデンは、町そのものが巨大な庭園であった。このバーデンバーデンほど高度に完成された庭を、私はほかに知らない。

(p.291)
バーデンバーデンの町は、けっして自然を脅かさず、人間が森の精霊に服いつつ暮らしていると思えた。
いったいどのように手をかければこうした美しい緑ができあがるのだろうと感心する。
よほどまめな努力をしなければこの形は維持できぬはずなのに、そのために働く人々の姿がない。
むろん人為も感じられない。地球の支配者は、神のつくり給うた大自然であり、人間はその自然の黒子として仕えている。
-これがドイツ庭園の思想なのであろう。だからかくも人為を感じられぬのである。
芸術の極意は、すなわちこれであろう。

(p.295)
「温泉会館」であるが、こちらは1823年に完成した由緒正しきもので、
カジノのほかにコンサートホールや格式あるレストランなどが併設されている。

(p.296)
さすがは十三世紀からの長い伝統を誇るドイツカジノの総本山である。

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